3月22日10時52分

呆然とした日記。


確か半年くらい前に、ふと思い立って「コーヒー豆の焙煎をしてみるか!」となり、勢いで銀杏とか煎れそうな手持ちの網と生豆を買ってきた。そして半年放置していた。新しいことを思い立ったときって、機材その他の導入コストの安さのわりにいざやるぜ!となった瞬間の踏み出しコストが随分高くなる。そのコストの乖離を一切鑑みずに行動すると、未開封の〇〇などが山積してなかなかどうして悲しいことになる。この前ようやく開けたレーザー彫刻機もそういえばそうだった。あれも去年の5月時分に買ったはいいものの、いよいよ開けたのはこの前の2月。その間ずっと梱包されたままで部屋に放置されていた。可哀想に。

閑話休題。コーヒー豆を煎ってみた話。きっかけは、というかずっと心の中にあった憧れとしては、豊田徹也の『珈琲時間』に収録された短編の光景だった。事実手網も、利便性などを一切考慮せずに、漫画に写っていたものと可能な限り近しい形態のものを選んだ。選定基準が適当なものだから、明らかに自分の消費ペースと比してサイズが釣り合っていなかった。そんなことはどうでもよかった。ただとにかくやってみたい!の一念で手網と生豆を買い、いざやる元気をそこに投じることが出来ないままに半年が過ぎた。


そこへ気持ちが向いたのは、半ばやけくそだったと思う。

やることやるべきことやらねばならぬことはひたすらに押し寄せてきていてやりたいことはどこかへ押し流され、その濁流の上に「これに抗わねば滅(めつ)される!」という強大な危機感が覆いかぶさっていて、それから全力でエスケープすることに心身を摩耗され、その不毛で必死な逃避行にようやくひとつの区切りがついたところで、ふと、何も考えたくなくなった。

かつてジャンプで連載していた『火ノ丸相撲』という漫画で、ストレスを感じると無心に唐揚げを作る力士がいた。揚げ物の音を聞いていると落ち着くとかなんとか。その感じ、すごくよくわかる。料理って単に食事を作るためを目的としても行なえるけれど、料理を作りながら〇〇をする、ということは基本的にはしないので(そうは言ってられないってシチュエーションは山ほどあるけれどここは独身男性の話と言うことで流してください)、他ごとをいろいろ考える余地がなくなる。とりわけ、揚げ物のような「視覚と聴覚をしっかり活用しなくてはならない」料理だとなおさら。

私が普段家で食事を作る理由のひとつに、この効用がある。目の前にある有象無象の厄介ごとに手を付けなくてはならないのだけど、一方で何も考えたくねぇ!という状況になった時、致し方ない理由で、それでいて褒められた理由で、極めて合法的に現実を逃避する手段として、料理をする。さほど手のかからない料理と言えど、いちから作っていたらそれなりに時間はかかる。そして出来上がったものを食べる時間もある。その間、現実はどこかに行っている、あるいは私はどこかに行っている。


そんなことを考えた故か否か、それはまぁどうでもいいとして、コーヒー豆の焙煎をした。

チャフなるものが発生することなど全く知らないままに始めたので、パチパチという静かに弾ける音と共に焙煎されている豆から何かが舞い上がった。生豆をまとう薄皮が過熱されたことで剥がれ落ち、それに引火したものだった。自動焙煎機ではこれを分離させる仕組みもあるらしく、焙煎後に豆とチャフを分ける作業が地味に面倒だったのでそれは良い機能だなと思った。

初めて自分で焙煎したコーヒーは、やや雑味があるもののわりとおいしかった。ただここから腕を上げる余地はいくらでもありそうだなと感じさせるものでもあり、これは確かにシュミの世界だとつくづく思った。


呆然とした日記が終わった。


昨日は日がな一日何もせずに過ごしてしまった。たまにはそういう日も、と言いつつも、随分酷い一日だったように思う。

厳に何かしらすべきことと体調を鑑みて、予定していた旅程を全部キャンセルしたにもかかわらず、やったことと言えばスーパードンキーコング2をや6面の途中までクリアしたことくらいだった。久々にやってもつくづく面白いなあのゲームは。

そういう逃避行動に費やす気力もそろそろ底をついたので、おとなしく現実とコンニチハしようと思う。

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